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Nikkei Brasileiros! vol.13

トミエ オオタケ(芸術家)

 日伯交流100周年企画
後援=在日ブラジル大使館
協 力=AMERICAN AIRLINE

Photoraphs & Text by Mizuaki Wakahara(D-CORD)
Directed by Ryusuke Shimodate
Edit by Tomoko Komori

Camera Assistant by Yayoi Yamashita
Coordinated by Tamiko Hosokawa (BUMBA) / Erico Marmiroli


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2008 年、地球の裏側ブラジルへの移民がはじまって100年の月日が流れた。今では150万人を超える日系人が暮らしている。 南半球最大都市サンパウロへ「japon」に会いに旅にでた、日系ブラジル人ポートレイト集。

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2008年10月10日

 「あのトミエさんに会えるんだぁ」。タクシーの中で、トミエさんに想いを馳せたこの数ヶ月の様々な場面を思い出していた。初めてポルトガル語の先生、レズリー(上智大学のポルトガル語科のアイドル! 仏のような笑顔をしながら山のような宿題を僕に課した恩人)に会ったとき、真っ先に名前が挙がったのがトミエさんだった。レズリーはトミエさん一家と幼少期から家族ぐるみの仲だったので、トミエおばあちゃんによく面倒をみてもらっていたそうだ。「トミエさんはいつでも笑いながら踊っていました」と印象を語ってくれた。そしてその次の授業のときはトミエさんの作品が掲載されているブラジリアン現代美術アーティストの作品集を持ってきて「これをミズアキにあげます。トミエさんに会えたらそれはそれは素敵な体験でしょう」と言われた。


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 トミエさんのことを調べるのは簡単だ。世界的にも有名なアーティストなので、日本語での情報もたくさんある。まさにWORLD FAMOUSだ。彼女のことを調べれば調べるほど、僕はその世界観に惹かれていった。あのオスカー・ニーマイヤーだってトミエさんのファンなのだ。今回の旅で、なにがなんでもお会いしたいと切に願っていた。


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 ところが、翌月に個展を控えたトミエさんは現在追い込み中で、とても疲れているし、時間的にも難しいと取材は断られた。なんとしても会いたかった僕らは、実の息子ヒカルド(本連載vol.9)にも相談したが、良い返事はもらえなかった。全ての道は閉ざされたかに見えたが、僕には最後の切り札があった。サンパウロに上陸した当日の夜、コーディネイターのエリコに誘われてお邪魔した、某現代美術アーティストの大規模なグループ展のオープニング・パーティーへ向かう途中、ある交差点でばったり出会ったのがなんとトミエさんの10年来のアシスタント、吉沢太さんだった。ほんの数秒の挨拶だったが、その時に名刺をもらっていた。今日のコーディネイターのタミコさんも面識があるとのことだったので、彼女から吉沢さんに連絡をしてもらった。電話はつながった。タミコさんが「そうそう例の件なんです」と言っていたので、トミエさんに取材オファーが来ていることは吉沢さんも知っているようだ。そして、すべては一瞬にして起きた。「お願いします!」と言ってタミコさんが僕を見ながら返事を待った。吉沢さんが隣にいるトミエさん本人に確認しているようだ。僕もタミコさんを見ながら息を呑んでファイナル・アンサーを待った。

 「はい! 4時半に!」

 !!!!!!!!!!!
 発狂した。真っ先にレズリー先生の仏の顔が浮かんだ。
 「先生、ついにトミエさんに会えます!」と四谷に向かって心のなかで叫んだ。


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 モルンビーにあるトミエさんの自宅兼アトリエは、長男の建築家フイ・オオタケさんが設計したものだ。ブラジル人のお手伝いさんに連れられ重厚な玄関をくぐり抜け、とんでもなく大きなアトリエで、遂にトミエさんと対面した。「これはこれは、遠いところよくいらっしゃいました」。と腰をあげて挨拶していただいた。「まあ座って、カフェでも飲んでください」。トミエさんを囲んで、みんなが着席した。お疲れだと聞いていて心配していたが、非常に元気そうだった。大きな天窓から光がたっぷりと降り注いでいた。開け放たれた庭からは小鳥のさえずりが聞こえ、植物園にでもいるかのような気持ち良さだ。
 「95歳になりました。お陰さまでこうして元気です」。と僕らの緊張をほどくように話しはじめてくれた。「元気の秘訣は何ですか?」の問いに「仕事です」と即答した。「今日もさっきまで仕事していました。毎日朝10時から16時まで仕事します。太ちゃんが疲れるからお昼に2時間ほど休憩しますけどね」。とアシスタントの吉沢さんをからかった。流し場には本当に今さっきまで使われていたであろう道具たちが無造作に置かれている。
 それから現在進行中のプロジェクトをつらつらと説明してくれたがどうやら3テーマほど同時進行しているようだ。それは忙しいに違いない。それ以外にも近々、沖縄と東京都現代美術館にも彫刻が入る予定だそうだ。


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 まずは単刀直入にブラジルについて聞いてみた。
 すると嬉しそうに「ブラジルはいいですよ。いろんな人がいるでしょ。何となく......、自由ですよ......、全体的に自由」噛み締めながら口にしたその言葉には、この土地への愛情があふれていた。それからブラジルへ来たきっかけの話をしてくれた。
「兄が5人いて、わたしは末っ子なんですが、そのうちのひとりの兄がね、大学を卒業したけど仕事がなくてね、世界のこと何も知らないからブラジルにでも行ってみようって。でも来てみたら、言葉もしゃべれないし、仕事も農業ばかりだったの。唯一ね、運転だけはできたのよ。だからタクシーの運転手になった。最初はね、お客さんとの会話で言葉を覚えて、ついでに道も覚えたんだって。それからブラジルでいろんな人たちと知り合って、しばらくして製薬会社をつくったんです。いろいろ大変なことだらけのようだけど、何かと楽しそうで日本に帰って来ない兄がうらやましくてね、気がつくとブラジルに行ってみたくてしょうがなくなった。当時わたしは絵が描きたくてね、それもブラジルで。ママイをだましてわたしもこっちへ来ちゃったの。22歳のとき。そうしたら、いい男がいたからね、すぐ結婚したんですよ。相手は日本人。彼は大学を出てから仕事を探しにブラジルへ来て、郊外で農業をやっていました。でもわたしの兄の勧めで兄の製薬会社を一緒にすることにしたんです。ちょうどそのころ戦争もはじまっていて、いつ帰国できるかわからないままでしたしね」。
 しかし、トミエさんが芸術活動を始めたのはずっとずっと後のことだ。
 「すぐに結婚してファミリアができたでしょ。そこで考えたの。ファミリアが大切か? わたしの欲望だけのちっちゃな道が大切か?」。
 「せっかくファミリアをもったのだから、子供が成長するまでは家族に尽くそうと決めました」。それから15年間、トミエさんは家の仕事をやり続けた。そんなトミエさんを絵画の道へ導いたのが、パリを拠点に活動をしていた画家の菅野圭介さんだった。
 「パリで成功したスガノさんがブラジル現代美術館で展示をするためにこちらへ来ました。その時に、子供は勝手に成長するから、トミエさんもやりたい絵をやりなさいと言われ、それもそうかなと思ったのではじめました。39歳のときです」。
「どうのこうの考えずに、ただただ描いてみました。そうしたら作品が次々と賞をとってしまいました。そのころからわたしはアブストラクトです。それはわたしの日本の家の床の間がアブストラクトだった影響があると思います」。
 

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 まだまだ聞きたいことは山ほどあるが、きれいな自然光があるうちにポートレイトを撮りたいと思ったので、「そろそろ撮影したいと思うんですが」と切り出したが、「あらそう? それよりコレ食べて!」と新たにおかきをお皿に盛りながら一蹴されてしまった。「どうぞ召し上がって! あなたちゃんと食べてる?」と少し恐い顔をして聞く姿は僕のおばあちゃんそっくりだ。「いただいています! 美味しいです!」と言うと安心して嬉しそうな表情になるトミエさん。「ちょっと! カフェジーニョ!」と遠慮する間もなく新しいカフェを呼ばれてしまったので撮影はお預けだ。


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 創作に関する話が続く。トミエさんのインスピレーションはどこからくるのだろうか?
 「いつも聞かれるけれど、あまり説明がつきません。突然湧いてくるので。特に手で触りながらつくるのが好き。このアルミの板とかを使って、自分で曲げながらかたちを決めるの。思いついたままどんどん修正していけるのもいいでしょ。あとね、寝ているときにもいろいろ思いつくのよ。かたちが浮かんで起きることもありますからね。複雑で忘れそうなことはわざわざ起きてメモに残したりもします」。
 「ブラジル人から作品が日本的だと評価されることはありますか?」
 「よく言われます。わたしはこれっぽっちもそうは思いませんが、何かジャポンを感じるようです。まあ勝手に感じたらいいです......。ひとそれぞれですのでその辺は気にしません」。
 何を聞いてもすぐに答えが返ってくる。
 敢えて聞いてみよう。「トミエさんにとってアートは何ですか?」
 「それはわたしのVida(Life)。わたしのVidaがFormaへと姿をかえるの。ねぇ番茶いれて!」即答におまけも付いてきた。まだ撮影できそうにない。焦る気持ちもあるが、流れに任せるのがブラジルの掟。撮れるときに撮ろう。
 「あなた番茶美味しいでしょ。あらコレももっと食べなさい!」と怒られる。
「もう喰えねえよ!!」って叫びたいが我慢した。「コレ全部食べたら撮影しましょう」って雰囲気になったので、横に座っている僕のアシスタントの弥生の耳元でささやいた。「おまえダッシュでコレ喰え!」。
 

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 番茶でおかきを流しこむ弥生。様子を見かねた吉沢さんが気をきかせてトミエさんを諭しはじめる。「ねっ。そろそろ撮りましょう!」そしてみんなで束になって撮影する雰囲気を煽った。何か腑に落ちないって顔をしながらやっとトミエさんも「そんなに言うなら」と腰をあげてくれた。

 ファインダーの中にトミエさんが......。喜びを隠せない僕ははしゃぎながら撮る。
 作品が載っている作業台の前で撮影するときには、「わたし描いているふりした方がいいですか?」と予期せぬ提案があったので驚いた。『仕事してる風』の演技とか嫌いな人が多いのに、気をつかっていただいてるんだなと思った。
 「もういいでしょ?」のひと声で撮影は終わった。ベストショットが撮れていることを願った。


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 またもとのテーブルへと戻ったころ、来客があった。18時。打ち合わせのようだ。そろそろ失礼すべきタイミングだと思っていたが、「あなたたちコレ食べながら待ってて」と言われた。もう食べれないがまだ帰らなくてもいいようだ。

 僕らの目の前で打ち合わせは進んだ。相手はポルトガル語。トミエさんはほとんど日本語で話が進んでいる。不思議な光景だ。


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 20分ほどで打ち合わせが終了。どうやらもうすぐ始まるサンパウロの映画祭ポスターのデザインチェックだったようだ。作品を僕らに見せながら、「わたし、これは嫌々つくったの! 今年は自分の作品に集中したいから、この話は一度断ったんだけど、去年使わなかった作品で忘れていたものが出てきて、これがシネマの象徴だからこれを使いたいって向こうも聞かないの。仕方ないわね......」。
 トミエさんでも、そういうことがあるんだなぁとまた新たな発見だった。


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 最後に、あつかましいお願いをした。
 「ブラジルと日本の関係を、簡単に描いてもらえませんか?」
 「はい」とまた即答だった。
 「弘法筆を選ばずと言いますが、わたしは筆を選びます!」と冗談をとばしながら、何十色もあるペンの中から色を選ぶ。そしてさらさらと描き、サインを入れてくれた。
 「まぁ、こんなもんですよ! いいですか?」
 一同感動して歓喜の声のなか、「そう?」とペンを置いた。


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 「ブラジル国籍をとったときは少し寂しかったですけど、ここがわたしの場所なんだと思っています」と言う言葉で締めくくってくれた。僕にとっては忘れられない一言になった。
 果たして東京は僕の場所だろうか? そう自問するようになった。
 生まれた場所、現在居る場所は必ずしも自分の場所とは限らない。
 東京が自分の場所なんだと言い切れない、この気持ちはなんだろう?
 いつか、ここが自分の場所だと思える日がくるのだろうか?


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 ひとは国境を越え、国籍を越え、自分の場所を探し続ける。
 僕の運命のコンパスの針は、まだ揺れたままだ。

 トミエさん、吉沢太さん、そしてレズリー・ワタナベ先生、ありがとうございました。
 今度は朝から何も食べずに伺います!





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