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Nikkei Brasileiros! vol.11

ホジェリオ ヒデキ(グラフィック・デザイナー)

 日伯交流100周年企画
後援=在日ブラジル大使館
協 力=AMERICAN AIRLINE

Photoraphs & Text by Mizuaki Wakahara(D-CORD)
Directed by Ryusuke Shimodate
Edit by Tomoko Komori

Camera Assistant by Yayoi Yamashita
Coordinated by Tamiko Hosokawa (BUMBA) / Erico Marmiroli


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2008 年、地球の裏側ブラジルへの移民がはじまって100年の月日が流れた。今では150万人を超える日系人が暮らしている。 南半球最大都市サンパウロへ「japon」に会いに旅にでた、日系ブラジル人ポートレイト集。

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2008年10月10日

 〈笠戸丸〉の名前を知るブラジル人は今でも非常に多い。1908年4月28日に781人の移民志願者を乗せた〈笠戸丸〉は神戸港を出港した。シンガポールや南アフリカを経由した後、6月18日にサンパウロ州のサントス港に到着。これがブラジルへの初めての日本人移民である。今日取材をするホジェリオの祖父母の名前がその笠戸丸乗客員名簿に記されている。通称〈笠戸丸移民〉と呼ばれるこの記念すべき第一便での移民の末裔は、今回の取材で出逢った多くの日系ブラジル人たちのなかでもホジェリオだけである。


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 〈笠戸丸〉そのものも数奇なストーリーを持っている。イギリスの造船会社で造られた笠戸丸は当初ロシアで貨客船として使用されていた。それが日露戦争中に、被弾して逃げ場を失ったところを日本軍が捕獲。日本海軍のものとなり〈笠戸丸〉となった。その後、日本国内で何度も売却を繰り返され、1939年以降は日本海洋漁業の所有となっていたが、1945年、太平洋戦争終結直前にカムチャッカ沖でソ連軍に捕獲されると、乗組員は下船させられ拘束、数名の病人を乗せたまま爆破され海に沈んだ。


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 そもそも当時日本人の移民先といえばアメリカであったが、それがなぜ距離的にも倍以上遠方のブラジルに移民するようになったのだろうか。
 まずブラジル・サイドの要因として、農業労働者が著しく不足していたことが挙げられる。奴隷制度廃止以降、その農業労働者の多くはヨーロッパ移民で賄われていた。しかし、奴隷と変わらぬ労働環境はすぐさま反乱をまねき、ほどなくヨーロッパ移民はイタリアを中心に一時中止される。再び労働者を失ったブラジルは、新たな移民を求めていた。
 一方それまで多くの日本人移民を受け入れていたアメリカでは、西海岸一帯で日本人移民排斥の気運が高まり、1900年より移民の受け入れを極端に制限しはじめたために、日本政府は新たな移民の受け入れ先を模索しなければならなかった。
 そんな背景があり、ブラジル政府から正式に日本人移民の実施を打診されることになる。


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 さて、そろそろホジェリオの話を始めよう。
 まずは名前。コーディネーターのエリコに彼を紹介されたとき、〈ホジェリオ・ヒデキ〉って両方とも名前で名字がないと指摘していたが、ホジェリオ本人から公的にこの名前であることを確認した。日系ブラジル人には本来は名前的であるものを名字のように残す人が少なくないが、たびたび笑いを誘う組み合わせに出くわす。それも楽しみのひとつでもある。


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 ホジェリオは日系三世。笠戸丸移民の祖父母はともに北海道出身で、地元には祖父の像も建っているらしい。今回は彼と彼のビジネスパートナー、ヴィトール・サントスのふたりが中心となって立ち上げたクリエーター集団『estudio arvore』(*1)の事務所を訪れた。中心部パウリスタから車で15分ほど北に位置する街だが、閑静ながらもヴァイタリィティに溢れた雰囲気で、クリエーションには最適な環境だと思った。彼らは本当に多くの広告を手掛けていて、事務所の壁一面に張られたスケジュールボードには『FIAT』や『NIKE BRASIL』など進行中の案件の経過がコラージュのように表現されている。コンピュータ上で管理すれば? と言いたくなることも意外に手作業だったりするところが、彼らの創作活動の秘訣かもしれない。
 ヴィトールは言う「ホジェリオは足の先まで日本人だよ。全然ブラジル人と違う。違いすぎる。ものの考え方から、生活習慣まで。まるで外人と仕事してるみたいだ」。理由はホジェリオの育った環境にある。一世の祖父母と二世の両親はともに日本流にこだわり続けた。毎日夕食は必ず日本食。そしてお米は欠かさない。「今でもわたしの夕食は日本食です。1日に2度はお米を食べないと気がすまないんです。なんと言うか、日本人じゃない気がしてしまって」。「えっ? だってホジェリオ日系ブラジル人でしょ?」と聞き返すと、「わたしは全然ブラジル人じゃないし、根本的に日本人でありたいんです」ときっぱりと言いきった。
今回の取材では初めての逆転現象だ。
今まで散々ブラジル化の流れの人生観を聞いてきたが、ホジェリオの感覚は正反対だった。いかに日本的な日系ブラジル人であるかに並々ならぬこだわりがある。「おばあちゃんが特にそういう人だった。『ブラジルで生まれて、ブラジルで育てば自然にブラジルの文化を吸収できるけど、あなたには同時に日本の文化も吸収できるチャンスがあるのよ。日本人の礼儀作法ほど美しいものはありません。だからいつも日本人の心を忘れないで欲しい』と話していました」。


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 さらにこうも続ける。「今の日本の若い世代はすでに大切な日本文化を忘れだしていると思う。日本人らしい日本人が減っていくことを寂しく思います」。なんと日本人の心配までしてくれるのかホジェリオ! 僕らは心配させちゃって申し訳ない気持ちになった。「大丈夫! 日本人は今でも日本人だよ!」とその場をしのいだ。
 

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 そうこうしているうちにお昼どきになり、みんなで近くの市場に繰り出した。サトウキビのフレッシュジュースを片手に、いろいろつまみながら気持ちの良い時間を過ごす。はずだったが! じつは次の約束の時間がかなり迫っていた。時間に厳格な日本人である(つもりの)僕は何度もコーディネーターのエリコに「まだ大丈夫なの?」と念をおしたが、エリコはいつでも「ミズアキ、ダイジョウブ!」と言う。さすがイタリア系(イタリア人ごめんなさい)。エリコはエリコの時計でしか動かない。
 少なくともわたしたちが完全に遅刻ペースだということをホジェリオに気付かれないようにしなくてはならない。「僕も日本人らしい日本人として頑張る!」とか何とか言ってしまっていたし。


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 恐ろしく真面目で礼儀正しいホジェリオ。今ではかなり少数派かもしれないが、彼のように日本人の心を大切に守り続けてくれる日系ブラジル人の気持ちは本当に嬉しく思うし、日本人としても良い刺激をうける。そしてその感覚が彼の仕事にも大いに活かされ、手放しの評価を受けていることがまた素晴しいことだ。
 『estudio arvore』のスタッフたち、ヴィトール・サントス、素敵な時間をありがとう。


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 そしてホジェリオ、日本文化への忠誠を表現したTATOOを見たら、キミのおばあちゃんもきっと喜ぶに違いない。


*1:estudio arvore
http://www.estudioarvore.com.br/09/

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