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Interview #06 Noma

Noma × 河原里美

Photographs by Masayuki Furukawa (d-cord)
Make-up by Tokuko Oda
Hair by Satomi Kawahara (d-cord)
Model by Noma (SuperContinental, nude.)
Text by Kazuki Hoshino


ポートレイト連載#01に登場した、Nomaへのインタビューを掲載。九州の佐賀で、日本人の父とイタリア系アメリカ人の母の元で生まれ育ち、現在はモデルとして活動する一方、旅行記本を上梓するなどカルチャー分野でも活躍する彼女に話を聞いた。

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河原 ノーマの故郷は九州でしたよね。お父さんかお母さんのどちらが外国の人なんですか?

ノーマ 九州の佐賀で18歳まで育ちました。お母さんがイタリア系アメリカ人ですね。ニューヨークで生まれ育ってるんだけど、シチリア島から移民してきた家系。少し天然なんですけど、真面目でピュアな人でした。お父さんはこってこての九州男児。

河原 九州男児って、ほんまに頑固なイメージあります。

ノーマ いわゆる昭和の頑固親父ですね。大学で遺伝子の研究をしながら教授をやっていたんだけど、かたや空手の先生もやってたからすごく怖かった。平日は仕事が忙しくて家に全然いないんだけど、週末は父が家にいてピリピリしてるから憂鬱でした(笑)。

河原 何人兄弟だった?

ノーマ 4人兄弟で弟が3人。お父さんがそんなんだから、ケンカに負けて帰ってくるなという教えでした。それだけに小学校の時はクラスの男の子とのケンカがすごかった。

河原 空手もやってたの?

ノーマ もちろん、有無を言わさずやらされていました(笑)。父は、今はアメリカの西海岸の山奥で、人工透析の改良とか、水に含まれてるヒ素を取り除く研究をしてる。今でもたまに会いますね。いきなり電話やメールが来て、「元気か? 何日に成田空港に着くから来いよ」って。

河原 相変わらずなんや。

ノーマ そうなの。もともと人見知りな上に、そんなふうに割と独特の環境で育ったから周りとも距離があって、小学校の時は、学校に行って女の子と話をするのも緊張してました。どう接して良いかわからなかった。逆に、男の子はケンカすると距離が縮まるから付き合いやすかったんですけどね。学校が終わったあと、弟たちと皆で山とか川行って、泥だらけになって遊んでた。

河原 見た目は男の子みたいやった感じかな。

ノーマ 本当に男の子でした、悲しいくらい(笑)。

河原 女の子らしさの入り込む余地のない生活やったんやね。

ノーマ そうなの。当時住んでた公務員住宅の上の階に、同じ兄弟構成の家の女の子がいて、彼女が唯一の友達でした。


河原 私は、弟がひとりいたんだけど、2人男の子みたいに色違いの格好で、やっぱり女の子特有の付き合いが面倒くさかった。

ノーマ 女の子と仲良くなりたい気持ちはあったんだけど、シャイだったからさ。プラスそのエリアで唯一の外国とハーフのファミリーだったから、ず〜っとガイジンって言われて、周りとのコミニュケーションがさらにとりにくくなっていたし、自分でも殻をつくっていましたね。

河原 周りは悪気があるわけじゃないんやろうけど、当事者からすれば深刻ですよね。学校って、みんな一緒に前習えで出る杭は打たれるからね。

ノーマ それも嫌だった。小学生ってまだ自由もないし。特に田舎の学校ほど軍隊みたいに型と規則にはめたがるし、そこから逃れられない。皆からはガイジン扱いだし。楽しい時間は、弟とサッカーしたり動物とじゃれたり、自然の中にいる時間だったから、大人の社会に入っていくことも、大人になっていくという楽しみも、当時はまったく想像つかなかった。

河原 中学、高校はどうでしたか?

ノーマ 一転して中学高校はすごく楽しかった(笑)。あるときクラスの男子たちが、なにやらお金を持ちはじめていて、聞いたら新聞配達しているんだっていうの。だから私も中学校2年生で、こっそり新聞配達のバイトをはじめたんです。

河原 それまた渋いな(笑)。

ノーマ 洋服とか音楽に興味を持ちはじめて、女の子の友達もできた頃だったから、あれもこれも欲しいけど、家は厳しいからお小遣いも少ないしどうしようかっていう時だった。そんな時期に、初めて大きめの金額を持つことができて、そこからもう、ありえないぐらい楽しい日々がはじまりましたね。

河原 自由のきっかけをそこでつかんだんやもんね。

ノーマ しかもちょうどその頃、『CUTiE』とか『Zipper』にハーフのモデルが出はじめてて、今まで「あいつガイジンだ」って感じだったのが、「ハーフの子だ」っていうふうに変わってきて、自分がおしゃれに芽生えはじめたのとシンクロして、どんどん楽しくなっていった。高校になったらもっと友達にも恵まれました。

河原 そこからどういうふうにモデルになっていったの?

ノーマ 佐賀を出て、福岡に行って大学で国際法律を学んでたんですけど、あるとき声をかけられて、バイト代わりにモデルをはじめたの。最初はサロンのモデルだったんだけど、それを見たスタイリストさんが電話番号探し当てて、その人が定期的に仕事を振ってくれるようになった。彼女は今でも私の姉さんみたいな人で、本当に尊敬してる人なんだけど、「本気でモデルやるなら東京じゃないとダメだよ」って言ってくれて、それがきっかけ。当時は国際法律を学んで、外交関係の仕事をやりたいと思ってたんだけど、勉強していくうちに、想像していた現場的なものとは違う現実が多く、私とは合わないんじゃないかなと思ってた時期でもあったので。当時から韓国に2週間ボランティアに行ったり、インドに一人旅したり、あちこち海外に行ってた経験からはちょっと違和感があった。

河原 いくつぐらいの時?

ノーマ 20歳前後ですね。

モデルなら自分を自由に表現できるんじゃないかとモヤモヤ考えながら、1年後くらいに東京の事務所に入った。福岡で学生をしながら、最初は通いながら仕事をさせてもらってました。

河原 海外の仕事をしたいと思ったのは、韓国でボランティアをしたこともつながってる?

ノーマ 国際環境法とか紛争の問題とかは、親の影響もあったし、自然で遊んで育ってきてるから興味があった。お母さんがグリーンピースに入ってたから、小さい時から「違法伐採をやめよう」とポスターつくったり。確かにそういう問題意識はあったんだと思う。

河原 お母さんは何の先生だったの?

ノーマ 生態学者です。私が小学2年生の時にベニツチカメムシっていうカメムシの研究を初めて、山の中で300匹とか固まってるカメムシを母と兄弟で一緒に数えたこともありました。車で45分くらいの所にイノシシも出るような山があったから、夏休みの理科の自由研究用に、お母さんがイノシシの頭骸骨持ってきて、漂白して前頭葉・側頭葉ってラベルつけて提出したこともあったりとか。夏休み明けにクラスに持って行ったら、みんなどん引きしてました。理科の先生はめっちゃ喜んでくれたけど(笑)。

河原 お父さんとお母さんが研究者で、その影響があって、今のノーマの問題意識が出来上がっている感じがしますね。

ノーマ ちゃんと会社に入れとは言われなかったけど、「バカにはならないで」ってことあるごとに言われてましたね。

河原 ルックスの美しさ、趣味、問題意識とか、ノーマは自分の個性をうまいこと全部、仕事に活かしてると思う。人間は自由の可能性を自分でつくってると思うんだけど、ノーマは範囲が広いねんな、いい意味で。旅行記も出してるし。ちなみに、インドの話を少し聞いてもいいかな。いつ頃行ったんですか?

ノーマ 19歳の頃に、2週間ぐらいですね。

河原 その歳の頃だから、バックパッカー的な感じでしょ。結構大変なこともあったんじゃない?

ノーマ その頃は怖いもの知らずだったし、旅に関して無知だったから、薬も持たずにカメラと日記と着替え一着ぐらいの荷物。寝台列車で各地を回ってたんだけど、飲食店の生水を初日から飲んじゃって、大変なことになりました。インドの人は嘘をつく人も多くて......(笑)。騙されて火葬場の中に連れて行かれたこともありましたね。火葬場の主のおばあちゃんが説明してくれたんだけど、妊婦、子供、毒蛇に噛まれて死んだ人をはじめ、いくつか燃やせない人の掟があって、燃やせない人は川に流す。でも薪が足りなくて、しっかり燃やせないから結局半焼状態で川に流す遺体もあるみたなんですよ。最後に火葬場の主から「説明してあなたのためになったから、今足りてない薪代ちょうだい」と言われたんですけど。考えさせられますよね。

河原 バックパックの旅でインドに行った人は、トラウマになる人多いって聞きます。

ノーマ インドに行く前は落ち込んでた時期だったんだけど、その旅行ですごく元気になった。人が燃えて土に帰ったり、そのへんでトイレしちゃってたり、すごくリアルでシンプル、そして自然とも近い。私はそういう景色を目の前にしても拒否反応が出なくて......生きることに対しての純粋な生命力がすごいんですよ。それからですね、一人旅が好きになったのは。大事な経験でした。

河原 ほかにはどちらに行きましたか?

ノーマ カンボジア、香港、エジプト、ガーナ、スリランカ、ジャマイカ、タイ、南アフリカ、ジンバブエ、ボツワナ共和国とかとか。あとブラジルのサルバドールとピレノポリス。でも、最近行くことが多いのはハワイですね。20代半ばまでは疲れ知らずだったし、未知の景色やカルチャーを求めていた。好奇心はいまだにあるんですけど、今は自分の体が気持ちよくなる場所っていうのに敏感。ハワイは人の体を蘇生させるようなエネルギーが全体から噴出しているように感じるんです。ポイント、ポイントではどこの国に行ってもそういう場所はあるんだけど、ハワイはだいたいどこに行っても心身ともにみなぎるんです。私のテンパもさらにグリングリンになるし(笑)。

河原 鬼太郎の妖怪アンテナみたいな(笑)。

ノーマ 気候がいいのもあるんだけど、人間の動物的な部分で反応しちゃうんだと思う(笑)。本来、人も自然の一部だし。仲の良いファミリーができたこともあって、最近はハワイに一人旅が多いです。彼らはネイティブ・ハワイアンの特別自治区(Land of Aloha)のサポートをしていて、自分が知らなかったハワイアンの歴史、知識を教えてくれる。自治区は、広大な自然が広がっていて人も温かいんですよ。私はモデルとしてファッションやビューティーの分野にいるけど、経験して気持ち良いと感じる場所や学んだこと、自然との関わり方についても、カルチャーの一面として発信したい。だから、オフやタイミングが合うときは、積極的に気になる場所に出向きたいと思ってるんです。

河原 いつもフェイスブックに空港の写真アップしてるもんね。その次は決まって、現地で「イェーイ!」って。どんだけ体力あんのやろうって。

ノーマ 実は来週もやけんね。西表島! でも、そこまでやらせてもらえるようになったのはほんとに最近ですよ。こつこつ自分でやってきてようやく本を出させていただいて、そのお陰で旅つながりのお仕事をいただいたり。

河原 そういえばノーマとの初仕事はビューティ系の仕事やったよね。その頃、ルワンダの大虐殺の本『生かされて。』を読んでいた時で、メイクルームでその話したよね。

ノーマ そう、だってそのあと私その本買ったもん。かなりディープなところまで話しましたよね。大学の時にそのあたりに一番興味持って勉強してましたから。

河原 その時のことが実は忘れられへんかった。そのあと5年前に、WFP(国際連合世界食糧計画)のチャリティのマグカップをモデルに持ってもらって撮影するという、プロモーションの仕事やりましたよね。私がボランティアに興味があったからっていうのもあったけど、ノーマがいたからあの仕事は受けたんです、実は。

ノーマ 河原さんとは何度かしか仕事をしたことないけど、私にとっても一回一回が印象深いですね。

河原 それでは今後、やっていきたいことは? 

ノーマ わりとナチュラルフードが好きだったんですが、最近知ったのが元禄時代以前の日本の一汁一菜の献立が、世界で最も理想的な食事らしいんです。それがアメリカ上院の「マクガバンレポート」に書かれているみたいで。最近はなにかと玄米のオニギリ握っています(笑)。食事は心身をつくるものだし、まだまだ研究したい。食に関してもそうなんですが、ファッション、ビューティーだけに留まらず、カルチャーや自然、ライフスタイルの分野も自分が気持ち良いとキャッチしたものを、深く掘っていきたいです。そして仕事と大好きな人たちがいる東京生活と大自然と調和する、大切な時間をバランス良く大事にしたい。今後もモデルという仕事を通して、もっといろんな表現や提案ができるような仕事をしていければいいなって思います。





Noma
佐賀県出身のファッションモデル。雑誌や広告、ファッション・ショーで活動するほか、 Mr.Children「フェイク」 、bonobos「Standing there ~いまそこにいるよ~」などへのPV出演や、歌手としてCDアルバム『Higher Love』Sunshine of Love/M-Swift に参加するなど各方面で活躍中。著書に『ノーマのきらきら紀行』(ベストセラーズ・2011年)。

SuperContinental, nude.(公式サイト)

公式ブログ「ノーマの遠吠え。」






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