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Interview #03 Sachi

Sachi × 河原里美

Photograph by Masayuki Furukawa

Text by Kazuki Hoshino


ポートレイト連載企画に加え、今回の被写体のSachiへのインタビューを掲載。19歳より現在まで10年以上パリコレに出続ける彼女は、これまでどのようなモデル人生を歩んできたのか。そして家族とともに東京を離れた彼女の、現在の姿とは。

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河原 Sachiさんは海外のコレクションで長年活躍されていますが、モデルになったきっかけを教えてください。

Sachi 高校生の時にラフォーレ原宿の美容師さんに声をかけられたのがきっかけだったんです。そこでヘアショーに出させていただいて、ちょっとだけ目覚めたんですね。高校を卒業して専門学校のモデルコースに入りました。当時は千葉の実家から通っていましたね。

河原 卒業して、すぐにモデル事務所に所属されたんでしょうか。

Sachi 在学中にISSEI MIYAKEのフィッティング・モデルをやらせてもらってたんですが、そのあとYohji Yamamotoの仮縫いモデルのオーディションに受かったのをきっかけに、専門学校と提携している事務所に入りました。 当時からパリコレに出るのは夢だったんですが、 仮縫いのモデルをはじめてしばらくして、山本耀司さんがパリに連れて行ってくれるということになったと思ったら、コレクションに出ることになったんです。モデルになって1年も経たないうちに夢が叶ってしまった。そこから本格的に海外を目指すようになりましたね。当時の事務所だと、海外とのやりとりができないということで今の事務所に移籍し、そこから海外の事務所に所属して活動するようになっていきました。

河原 いきなりすごい話ですね。

Sachi 当時はデザイナーさんが日本人モデルを海外へ連れて行って、そういうチャンスをくれることがたびたびあったようです。ただ、コレクション前のフィッティングをしても、そのあとに他のモデルとバランスを見たり、本当に舞台に出られるかは最後までわからなかったんです。ずっとヒヤヒヤしていた記憶があります。

河原 山本耀司さんとは、きっとバッチリ波長が合ったんですね。それは嬉しかったですか? それとも実感する間もなく転がっていったという感じですか?

Sachi もちろん嬉しかったですし、緊張もしました。でもその時は、事の重大さのすべてはわからなかったですね。逆に経験が浅かったのが良かったかもしれません。その後、また渡仏してパリの事務所を探して、海外で仕事をしはじめたんです。

河原 まさに逆輸入ですね。

Sachi かっこよく言えばそうですね(笑)。それが19歳とか20歳の頃でした。

河原 19歳の時に山本耀司さんと接してどう思いましたか?

Sachi 仮縫いの作業中は、パタンナーさんが耀司さんに洋服を見せる緊張感も伝わるし、真っ白な部屋の中で、黒い服を着た人たちが黙々と作業をしている。私も緊張していましたし、もちろんお話できるような空気感じゃなかったですね。

河原 キャリアの最初から一流の仕事をするのが当たり前になるという。ものすごいことですよね。ちょっと想像がつきません。

Sachi できた服をただ着るんじゃなくて、一番最初の服を作る段階での現場に立ち会えたことが、今思えば貴重な体験だったと思います。

河原 そのほかに、パリではどんなブランドのショーに出られたのでしょうか。

Sachi ALEXANDER MCQUEENや、その頃彼がやっていたGIVENCHY、あとはViktor & Rolf、KENZO、ISSEI MIYAKE、Bernhard Willhelmなどですね。98年にはじめて行ってから、NYCでテロがあったあとに2年あいだが空いた以外は、毎年参加させていただいてます。LIMI feuのコレクションに、お腹が大きいまま出させていただいたこともありました。

河原 アレキサンダー・マックイーンの生前のショーにも出られたんですね。彼はどんな印象でしたか?

Sachi 最初はキャスティングの担当者に顔見せに行って、第2次審査で洋服を着せたモデルを実際に彼が見に来て決定するんです。でもそこからがすごかったですね。フィッティングが何度もあるんですが、ミリ単位でモデルに衣装を合わせていくので、つまんで針で取っていっての繰り返しで、終わる頃には床が針だらけでしたね。

河原 1ミリ体型が変わることも許されないということですね......。

Sachi あと、忙しいモデルならショーがはじまる1時間前にはじめて会場に来てもおかしくないんですが、前日のリハーサルにトップモデルたちも全員参加してました。ALEXANDER MCQUEENのショーだけは緊張感が違いましたね。舞台から衣装まで、すみみずみまで異常なほどに細かく厳しくこだわっていたことに驚きました。彼が生前に手がけたショーに出られて本当によかったと思っています。

河原 出たくても出られるわけじゃないですもんね。

Sachi 当時はパリで仕事をする日本人モデルが多くいたんですが、 最初は自分で事務所にアポを取って面接に行きました。 たまたまケイト・モスが所属している事務所に所属することができたんですが、そこに入れた運があったからこそというか。深く考えると怖くなっちゃうので、振り返らずに当時は頑張ってました(笑)。アジア人モデルが流行ってた時代だったので、仕事もさせていただいたし、楽しかったですね。フランスで映画の仕事をやったこともありました。

河原 時代にフィットしたんでしょうね。

Sachi でも最初の一瞬で決まってしまう世界なので、怖いですね。今でもそうですが、自分が自信がある時じゃないと、弱い内面が表に出てしまう。コンディションを整えるのも仕事のひとつですし、楽しかったものの大変な日々は続きました。

河原 実際、コレクションのシーズンに合わせてベストにコンディションを整えていくわけですよね。

Sachi そうなんです。でもそれだけじゃなく、オーディションに行くことだけでも大変でしたね。事務所の人に、メゾンの住所と連絡先が書いてある紙を渡されて、土地勘がないのに地図で調べて朝から晩までずーっと1人で回るんです。その場所に行ったら行ったで1時間、2時間待たされるのは当たり前で、ブックを見せても「サンキュー」の一言で帰されたり。道もわからないし、言葉も通じないし、泣きながら行ったこともありました。まだ通貨がユーロになってない時代は人にゆとりがなかったせいか、道ばたで人種差別を受けたり、からかわれたり。ユーロになってからは、なぜか差別を受けることはなくなりました。

河原 でもそれはいい経験になりましたね。

Sachi 今の若いモデルの子たちも、どんどん海外へ進出してほしいですね。事務所を探しに行くなら、なるべく若いうちから行った方がいいと思います。アジア人は若く見えますが、20歳を超えると断られてしまうことが多くなってくるので。

河原 話は変わりますが、私が上京して間もない頃、原宿駅に天王洲でやるYohji Yamamotoのショーのポスターが貼ってあって、それで応募して当たったことがあるんですよ。98年頃でしたかね?

Sachi えっ天王洲ですか、私のデビューの時かも知れないです。 

河原 たまたま道に迷ってた女性に話しかけられて、一緒に会場に行ったら、その女性が偉い方だったらしく、1番前の席で見ることができたという不思議な思い出です。

Sachi ナチュラルな仕事をはじめたのがここ最近なんですが、本当にいろんな仕事をさせていただきました。当時はカルチャー雑誌もたくさんありましたよね。

河原 でも、ここ何年かでだんだんなくなってしまって、ちょっと寂しいですね。

Sachi 『Cut』とか『H』、『DUNE』とか、いろんな人に会っていろんな仕事をさせていただきました。どちらかというとキワモノ系専門って言われてましたね。「原型なくなってるよ」みたいな(笑)。

河原 原型なくなっても耐えられるベースがありますからね。かなり作り込んでも耐えられるモデルは素晴らしいと思います。

Sachi 大変なら大変なほど燃えましたね。ひとつの撮影に3日かかったりとか。5キロぐらいあるカツラをつけて一晩中ロケしたこともありましたね。

河原 途中、誰か支えてくれたんですか?

Sachi こうやって、自分で支えてました。十二単(じゅうにひとえ)を着て、しかも日光江戸村で(笑)。最近はミセス系の雑誌の仕事もやらせていただくんですが、待遇の良さに驚きますね。

河原 いろいろな現場がありますからね。

Sachi 全身黒塗り、白塗りは当たり前ですし、そういえば赤もやりましたね。刷毛で塗るんですが、なかなか落ちないんですよ。でもそういう話をいただくと、自分の中で「キタ!」と思っちゃうんですよね。 「中途半端だったらやらなくていい!」みたいな変なプライドもありました。

河原 だからキワモノと言われるんですね(笑)。ではご結婚されて、その後のお話を聞かせていただいてもよいでしょうか。

Sachi 夫と結婚して、靴の会社をはじめました。モデルのお仕事もやりながら、27歳の時に靴のデザイナーになったんです。 夫がもともと靴の会社に勤めていたこともあったので経営をまかせて、私はそれまでの仕事の経験を生かしつつ。7年間やりましたね。
大きく状況が変わったのは東日本大震災でした。工場が被害にあって商品の納期が遅れたり、その前後に子供も産まれて、子育てももちろんしなくてはいけないし、原発の問題もありましたし。今思えば良い意味でターニングポイントでしたね。一度離れてみようと。

河原 多くの人にとって、震災は転機だったと思います。

Sachi 会社を年末にたたんで、今年の初めに西の方に引っ越したんです。今は充実しています。野菜も空気も水もおいしいし、子どもは走り回れるし。

河原 パリに比べたらたいした距離じゃないですしね(笑)。普段はどういう生活をしているんでしょう。

Sachi 向こうでは、子どもと遊んだり、プランターで野菜つくったり、酵素シロップつくったり。のんびり暮らしてます。

河原 仕事をはじめたころから今は変わってきてますか?

Sachi 歳を経るごとに仕事の内容も変わってますし、今は必要とされている時に、上京してお仕事させてもらっています。仕事に追われてた頃は考えなかったですが、だんだん自分がどういう人間なのかとか、これから何をしようとか、ゆとりをもって考えられるようになりました。今は自分と家族がどうやってより豊かな生活をできるかを考えるようになりましたね。

河原 お子さんができてよかったですか?

Sachi もちろん、すごく良かったですね。大変な部分もあるんですけど、子どもを見て勉強させられる部分もありますし、一緒に遊べるようになってさらに楽しくなってきました。今まではずっと抱っこだったのに、最近向かい合わせになってお茶できるようになったりとか、コミニュケーション取れるようになったりとか、すごく面白い。でも憎たらしいところもあるし、愛おしい部分と半分半分です。

河原 それでは最後に、これからの夢を聞かせてください。

Sachi モデルの仕事はできる限り続けていきたいと思っています。 あとは家族仲良く楽しく暮らせたらいいなと。暮らしている場所が焼き物の盛んな町なので、そのうち子どもと一緒に陶芸をやってみたいですね。





Sachi
千葉県出身のファッションモデル。国内の雑誌や広告、CM、コレクションで活動中。'98年の Yohji Yamamoto を皮切りに、LIMI feu、Alexander McQueen、Victor & Rolf、GIVENCHY、HERMES、KENZO、ISSEY MIYAKE、Bernhard Willhelm、LUTZ、ROBERT NORMANDなど、パリファッションウィークにて多くのブランドのショーに参加している。



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