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Interview #01 Miyuki Koizumi

小泉深雪 × 河原里美

Photograph by Masayuki Furukawa

Text by Kazuki Hoshino

東京に住む女性モデルたちを撮る、ヘアスタイリスト・河原里美によるポートレイト連載に加え、被写体の小泉深雪へのインタビューを掲載。昼下がりの代官山のカフェで、ベビーカーですやすやと眠る愛娘を見守りながら、静かに対話ははじまった。17年間モードの最前線を歩き続けた、彼女の等身大の姿とは。

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河原 何歳からモデルをはじめたんでしょうか。


小泉 17歳の夏からです。実は最初は歌手になりたくてオーディションを受けたんです。結局合格したんですけど、担当の大人の人たちに「あなたは背が高いから、最初モデルとしてキャリアを積んで、カタチになったら音楽の仕事をサポートしたいと思う」と言われて、紹介されたのが最初に所属した事務所だった。それが高校3年の夏休みでしたね。


河原 モデルは歌手になるための手段のはずだった?


小泉 それをきっかけに高校卒業してすぐ上京したんですけど、そのうち1人暮らしができるぐらいに仕事をいただけるようになって、歌手の話はいつのまにかなくなってしまって(笑)。


河原 でもいい方向へ流れて行ったんですね。


小泉 大人の人に初めてすごいと言われてうれしかったですね。だって新潟のど田舎の女子校に埋もれた一人だったのに、遅刻しても、先生が「小泉が来たぞ」みたいな。 


河原 「仕事忙しいぞ!」みたいな(笑)。歌のオーディションは東京であった?


小泉 そうですね。忘れられないのが、決勝の時に私と曲がかぶっちゃった女の子がいたこと。「同じ歌なら私これ歌えない! じゃあ私違う曲歌う!」って。その頃から小泉深雪節が出てたのね。


河原 1人アカデミー賞状態ですね。ドレスがライバルと被ってしまったっていう、よくある話のような(笑)。

小泉 「私とドレスがかぶってる! バレンティノ着ようと思ったのに!」って。結局決勝では松田聖子さんの『あなたに逢いたくて』を17歳なのに歌い上げた。準決勝は、酒井法子さんの『碧いうさぎ』でした。サビの手話までできるぐらいで、地元のティーンズ・ミュージック・フェスティバルに出たくらいの自信作だったの。


河原 自分でしゃべってて恥ずかしくならんといて(笑)。


小泉 その頃から自己主張は強かった。いつも言うのですが、この仕事は天職だと思ってます。周りの人たちの助けはなくてはならないけど、 自己表現が一番できる仕事。 その真ん中にはモデル自身の"自分"があるべきだと思う。昔からそうでしたね、気持ちは地味なくせに出たがりだった。部活は放送部だったりとか。


河原 ちょっと目立たないとあかんねや。


小泉 うん。自分がしゃべらないとはじまらない! っていう、前に出たがりで自己主張が強めな人だったなと思います。


河原 実際お仕事のスタートは雑誌から?


小泉 最初は雑誌で、マガジンハウスの上から下まで顔見せに行って、お仕事をいただきました。最初は単体でやれる仕事もまだなく、2、3人が組んでやる撮影からはじまったんだけど、そのうちコマーシャルが決まったり、それなりに仕事をやらせてもらうようになって、23歳前半くらいまではトントン拍子だったかもしれない。


河原 24歳くらいから苦労があった?


小泉 その前くらいから仕事がバシバシ決まって、海外によくロケに行けたりしたんだけど、同時に夜に繰り出してお酒を飲むのが楽しくなりだしてしまった。


河原 うん。


小泉 お酒で楽しくなりすぎて、大人の声も届かなくなって、自業自得で仕事がなくなってきたのに気づかなかったんです。でも当時の周りの人は「大丈夫よ」って。きっと彼女は気づいてくれるだろうという優しい姿勢だったんですね。そのまま鵜呑みにしてしまっていたからオーディションにも落ちるわけです。2日酔いで遅刻して行けなかったり、それを逆切れしたり。


河原 そんな時代があったんやね。


小泉 モデルで昔から仲がいい友達のマリアが、ファッションショーに引っぱりだこで、それは個人の努力なんですけど、「私もショーに出たい!」って。マリアの事務所に入りたいと相談したんです。仕事をやる気になったのは喜んでくれたんですけど、そんなハンパな姿勢の子を紹介できないと断られちゃったんです。でもまだ気づかず、態度も素行も悪かったから、いよいよ本格的に仕事がなくなっちゃったんですね。いよいよ本当に東京に居場所がなくなる、と追い込まれたときに、もう1回頼んで社長に会わせてもらった。社長はオーディションにも出向いてるし現場にも行ってるから、私の存在は知ってたんです。で、いろいろモデルとしての態度を指摘してもらって、1ヶ月の預かり期間で結果を出さなかったら雇いません、と突き放された。初めて大人の人に「あなたはダメよ、しっかりしなさい」と言われて、やっと気がついたんです。運動が苦手だったけど、ジムのプールでアクアビクスをおばさんとかと一生懸命やったりしましたね。その間にも、同じ事務所のモデルのショーの現場に連れていってくれて、刺激を与えてくれたり、「来シーズンはあなたもここにいるのよ」って気持ちのコントロールをしてくれたり。1ヶ月後には無事、今の事務所に所属させてもらいました。そこが一番のターニングポイントですね。 前の事務所でも、もちろんとてもお世話になったんですけど、 あのまま行ってたら、裸の王様状態のまま実家に帰って地元のホームセンターの『コメリ』でバイトしてたかも。


河原 私はそこまで聞いたことなかったけど。私が会ってる分には、全然そんな人じゃなかったし。


小泉 そういう時期もあったの。もう1回自分でも認識したいので、ぜひ伝えてもらいたいです。天狗だった時があったって。スタッフさんにも迷惑かけてしまったし。自分のことを正当化するのは嫌なんですけど、現場で完璧じゃなきゃいけないと思ってしまうところがあって。ショーでそのブランドのお洋服をPRするのは自分だから、ヘアにしてもメイクの肌感にしてもパーフェクトじゃなきゃ出たくない時期もあった。


河原 しゃべることに感謝の気持ちが入ってるというか、発する言葉に愛がある感じがしますよ。さらけ出して、昔の非を認めるって大事なことやなと思う。ところで、今まで1人で仕事してた時と家族ができたことによる変化はある?


小泉 家族のサポートもあり、思いのほか早く仕事復帰はできました。今は自分がお母さんモードで気が緩んでしまっていたので、周りに応えるためにやらなくてはという時期に入ってます。1人でやってる時より、本当にやりたいお仕事、必要なお仕事というものを選ぶ目とゆとりができましたね。それは家族というものの形に感謝です。


河原 今後の仕事へのスタンスはどう変わっていきそうですか?


小泉 まだ育児が大変で100%全開で仕事ができているわけではないけど、もう一段階の脱皮の時期に来てるのではと思う。傍若無人だった20代前半があり、1人で勉強する時期もあり、今は家族というものを持てた。そうなると仕事の内容も絶対変わってくるので、それが次のステップかなと思ってます。30歳半ばになって、これまでとは違う素敵な写真を残してもらえたりしているので、これからは数をこなすより、質のいい仕事をしていきたい。


河原 「いっぱい出て頑張っているね」と言われるより、紙面がなくても皆の記憶に残っていて「あれ、キレイだったね」という方がいいもんね。


小泉 たとえばこの間やった雑誌の巻頭のページが、素敵なカメラマンさんだったんですが、人との出会いも自分がやり続けていなければいただけないものなので、頑張らなくちゃと思います。40、50歳になっても自分に合ったいい現場に出会えているモデルであり続けたいですね。


河原 いろいろあって、それでも自己主張と言えるのはすごいと思う。昔は「自己主張」と文字で出るくらいの自己主張だったかもしれなかったけど、今回の撮影ではほんとにキレイで、お母さんになって、言葉も丁寧になっていた。今回の撮影は、私服でどうやった?


小泉 普段は作り込まれている行程があるので、素材のままやらせてもらえたのはすごく新鮮でした。 普段ナチュラルな写真が少ないので、その点は気分転換になりましたね。その前のメイクルームが全員女性ということもあって、女子トークも楽しかったです。カメラマンさんとの撮影が1対1で緊張するかなと思ったんですけど、 準備段階での気持ちのリフレッシュも手伝って、気負いしないでいけたので楽しめました。たまにこういう撮影があると気分が高まっていいですね。





小泉深雪 Miyuki Koizumi

新潟県出身のファッションモデル。国内の雑誌や広告、CM、コレクションのほか、Christian Dior、John Galliano、ISSEY MIYAKEなどのパリ・コレクションや海外雑誌で活躍。


Tateoka Office(公式サイト)

公式ブログ「deep snow's mind」




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