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フクシマを訪ねて。

藤代冥砂 Meisa Fujishiro

Text by Kazuki Hoshino


梅雨も明けきらない7月頭。 藤代冥砂は ロシア製のガイガーSOEKS 01Mを片手に、品川ナンバーをフクシマに走らせ、twitterにてライブで「福島記」と題した手記を配信していった。強い放射線の影響下に住む人たちをダイレクトに知り、県外に伝えるために。大手メディアでは報道されず、SNSでも文字だけでしかその実情を知ることのできないかの地で、藤代冥砂の見た原発事故後の現実とは。

th__MG_4161.jpg 郡山の藤田さん

――今回の地震の瞬間に何をしていましたか?

直後に刊行された『SWITCH』5月号Vol.29の震災特集号にもその様子を書いたんですが、11日は葉山の自宅にいました。息子は妻の実家に預けられていて、妻はその近くで用事をすませていた。まさに揺れてる瞬間に、直感で「揺れが終わったら電話つながらないな」と思って、揺られながら妻に電話したんです。電話したら、彼女は車の中にいたので「とにかく車止めて」と伝え、それから「電話はつながらなくなるから、息子の安全をお母さんに確認してね」と話して電話を切った。そして案の定それ以降不通になった。 葉山は停電になって、ネットもテレビも使えなかったので、自分はかろうじてi-podでラジオを聴いていたんですが、高速道路は翌日つながって、次の日の午後に無事会うことができました。

――そして福島第一原発が水素爆発しました。その事態に対してはどう思われましたでしょうか。

意外と怒りはなく、それよりも一刻も早く関東を脱出しなくてはいけないと思いました。情報の定まらない当時は東日本は全滅しかねないと思ってましたから。でもあんまり吹聴すると周囲をパニクらせてしまうし、それに対して確証はなかったから大きな声では言えなかったけど、とにかく皆も助かって欲しいと祈るような気持ちでした。

――沖縄に避難されたと聞いています。

そうですね。避難という判断をしたぐらいだから、状況はかなりヤバいという感覚を持っていました。政府の判断は信用できなかったので、自分たちで判断して動いていた。今は関東の平均の線量は、暮らしていくのにまず問題はないだろうというレベルにはなっているようですが、まだ予断は許されない。最初は一週間程度で葉山に帰ってくるぐらいの感覚だったんですが、今はそのまま借家で、家族で暮らしていくのもありだろうという方向で考えています。東京の仕事をやれる人はたくさんいるから、僕は違う方向に行くのもいいだろうと。


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いわきの伊藤さん親子



――さて、今回の福島のプロジェクトの話を聞かせてください。都合何日間行かれたのですか?

7月の頭に、5泊6日で行ってきました。以前から漠然と計画していたんですが、7月5日の前日の時点で、急に思い立ったんです。そのまま「明日どこにいきます。あさってどこに行くので、話を聞かせてください」とtwitterで声かけして、話を聞ける人を募集しました。でも、用意して車で走り出した時には一つしかアポが取れてなくて、正直どうなるかと思いました。最悪行った先で声をかけてもいいかなと思ってましたが、進むに従って話がtwitterで伝わり「私も聞いてほしいです」と、たくさん集まってきた。明日は郡山、明日は福島と予告するたびに、人のつながりも数珠繋ぎになっていきました。持ち帰って書くのではなくて、一日いろいろまわって体力がある時はその日のうちに書いて、疲れたときは早朝に書いてtwitterに流していきました。  

――福島を選ばれた理由は?

まず、5月末あたりに『BRUTUS』の取材が石巻であって、その時に被災地を訪ねました。石巻は津波の被害が甚大な場所です。カメラマンという立場として、震災直後に被災地に行って写真を撮るということを皆思ったに違いないけど、僕はカメラマンの仕事より、まず家族を守るという父としての仕事を全うしようと、それに背中を向けて家族を連れて沖縄に避難した。その行為に対して、自分は一つも間違ってないと思います。でもふとした時に考えると、津波の被災地は目に見えるカタチで被害はあるけれども、それ以外の福島の土地では、見た目は日常な分、避難に踏み切れない人が多い。特に子供を避難させるにさせられない悩みがツイートから聴こえてくる。そのにっちもさっちも行かない状況は伝わってくるけど、なぜ避難できないのか、その状況を自分でも見て、彼らのメッセージを汲み取って、外に伝えたいと思ったんです。パニックも一段落して、今それができるタイミングだと思いましたし、個人の視点で入りこんでいって、インターネットで拡散していけば、規模は小さいながらも、被災地の人々とつながる手段にはなるかと。


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相馬の警備員の人



――実際行ってみてどうでしたでしょうか。

そうですね。まず、誰もマスクをしていなかったのが印象的でした。5日間でマスクしてる人は10人ぐらいしか見なかったですね。

――情報が遮断されてるんでしょうか。もしくはパニックにならないよう、意図的にコントロールされている?

インターネットを見て、ある程度の状況を知っている人は少なくない。でも、知ってる人でもマスクをできないような雰囲気というか。周りがみんなしてませんから。 家に帰れば普通にバラエティ番組がやっていて、芸能人や芸人が笑っているような日常がそこでも流れていますから、周囲のムードに流されちゃうんですね。そういう中で自分だけ緊張感を保っているのはしんどいことに思えました。

――避難区域の飯館村の様子を教えてください。

飯館村は30km圏外なんですが、水素爆発のあった当時は北西の方向に風が吹いていて、それに乗って飯館村、郡山市、 福島市、 伊達市と放射能が流れてしまった。距離的には近いいわき市よりも線量が高いので、飯館村は全村避難区域です。でも入る人に関してはガチガチに警備されてるようではないようです。原発近辺でもJビレッジあたりであれば入れてしまうと聞いています。コアな部分はさすがにブロックされているようですが。自分もそのつもりはなくても、いつの間にか30km圏内に入ってしまっていたこともありました。村では、原村に避難してたのにひょこり帰ってきて、たまたまいたおばあさんとか、避難して生徒がいなくなった小学校で、残った事務を片づけにきてた先生に話を聞いたりしましたね。

――「普段は絶対行かないような観光地も撮らなくてはいけない」と福島記に書かれていました。

観光客はほぼいませんでした。会津は東京より線量がちょっと高いぐらいなんですけど、福島だとひと括りにされてるからでしょう。今回のプロジェクトは、趣旨的はズバリ「福島の苦しみを忘れられたくない」ということなんです。美しい風景を撮って、そこある目に見えない放射能の中、生活している人々を想像してもらう。〈美しいんだけど、ここに人が住んでいいのだろうか?〉と考えてもらうきっかけになるようなプロジェクトにしたかった。あとは、福島から避難せざるを得なかった人たちのために、福島という場所の素晴らしさを残してあげたいという気持ちもありました。福島県民のために、美しいけど汚されてしまった土地のことを、他の土地の人にも考えてもらおうと。ヘヴィなものだと、見る前から嫌になってしまう一方、皆ショッキングな画に慣れてきてしまってるから、見る側の心が動かない。そこからが表現のもう一踏ん張り、スタートだと思います。 なので僕はもう少し引いた視点でとらえようかなと。


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いわきの海



――今回の福島記は、スライドショーとして公開されるようですね。

移動も宿泊費も設置も、すべて自腹を切って開催することになると思います。今回のプロジェクトの性質上、スポンサーを集めて行くような感じでもないのかなと。でも、あまり自分で背負いすぎると継続できなくなる。そのために寄付を募るのもまた違和感がある。そのお金があれば福島の人に渡したい。なので、現地の人に参加費を少し出してもらって、宿泊費にでも当てることができたらいいなと考えています。

――まずは西から。

西方面の人が今回の震災に関してピンときてないと思うので、そういう人たちに、いまの福島の状況を知ってもらいたい。いろいろ考えましたが、定員30人ぐらいのカフェスペースでスライド形式でやるのが一番いいかなと。展覧会だと、額縁を持っていったりとなかなか大変なので。2週間ほどのロードに出て、手応えのありそうなところでは後日また写真展をやるという流れにしようかなと。行ったり帰ったりより、一度で巡業する方が移動費も節約できますし。でも、まさか自分が社会的なボランティアな活動をやるとは思わなかったですね。どらかというと、大きなやり方――スポンサーを集めてチャリティ写真展を大きな会場でドン、みたいにやるイメージが、今までの仕事からは近いのかもしれない。でも、そういうやり方は既にたくさんされていると思うので、むしろ僕は地味に、こまめにやっていくことを大切にしたいなと思ったんです。

――西側の人はやはり実感がない?

やはり直面してる関東の人よりは希薄だと思います。極端な話、沖縄の人も。それは阪神大震災のときの関東の感覚に近いかもしれません。距離を置けばおくほど実感は薄くなっていきますので、しょうがないことです。でも原発をどうするかという問題を含めて、今回の震災は日本全体の問題ですから。関東だけで〈反原発〉と叫ぶだけじゃなく、日本全体で考えるべき問題だと思います。


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ビジネスホテルの一室



――原発に関しては、SNSをはじめとして原発推進派、反原発派と別れて日々議論がされています。

安定した日々を過ごしたいと思うのは皆同じですが、その方向というのは、今までとまったく同じところに戻ろうとする力と、今までと違う安定した場所に向かう力とで、大きく別れているのだと思います。でも、それを対立構造にせずに、皆でひとつのいい方向にむかえるムードづくりができればいいなと思っています。原発推進派、反原発派と二項対立構造になっちゃうと、どうしても潰し合い、揚げ足取りになってしまう。方向を一つにしていくのに、福島の今の状況の実感を共有してもらうのは一つの手段だと思っています。twitterをはじめ、SNSをやってる人たちは、西にいようが東にいようが原発に関して関心は高いですが、それ以外の人たちにも現状を伝えたい。スライドショーをやって、1回30人ぐらいのキャパだとしても、きっかけづくりを、できる範囲でやっていくのは大事だと思う。それまではなんとなく反原発の立場でしたが、 twitterも含めて、メディアリテラシーが自分の中でようやく芽生えた気がします。

――確かに、原発関連の情報発信がSNSで活性化している状況で、一つになるという考え方はほぼないに等しいと思います。皆が忘れている大事なことなのではないでしょうか。

あと大事なのは〈集うこと〉ですよね。普段仕事をしてて現場に行くと、〈カメラマンの藤代さん〉として登場するわけですけど、でも福島に行くと、たまたまtwitterで知り合ったカメラマンやってるらしい人が来る、となるわけです。「最近どんな写真をとってるんですか?」「いやあ人物ですよ」なんていう会話を、話をしてくれてる人の子供を抱っこしながら交わしたり。彼らが僕のバックグラウンドを知らなくても、特別なつながりを彼らと結べたんじゃないかと思っています。中には、ずっと自分だけで抱えてて、震災から4ヶ月経って初めて人に話せた。逆にありがとうございますと言われたこともあった。自分の中では業界の人としか付き合う機会がなくなるような危惧は前からあったんです。カメラマンの藤代さんにしか話をしてくれないような。ヘアメイク、スタイリスト、編集、ライターとか、職業でいうと、せいぜい10ぐらいのカテゴリーの人としか話をしなかったから、今回、東京人じゃなくて、やっと日本人になれたと実感がありました。東京って特殊じゃないですか。その中で何かを獲った気になってた気がしてた自分に気づいて、ちょっと危ういと思いました。福島行って、それに気づけたのもよかったと思っています。 やはり、実際に会って話すことが大事だと思います。まず意識が同じ方向に向かっている人と話して確認し合う。今回のプロジェクトがそういう場になればいいなと思います。





■プロジェクト「福島記」は、今後関西方面でスライドショー形式での開催を予定。詳しくは藤代冥砂ブログ、twitterアカウントにて告知されます。またtwitterでの「福島記」の文章部分はhttp://togetter.com/li/160027にまとめられています。

藤代冥砂ブログ 
http://meisablog.jugem.jp/

藤代冥砂twitterアカウント 
https://twitter.com/meisafujishiro








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